アクトランドのひみつ【第4回】北辰一刀流の免状

坂本龍馬が京都の千葉道場で修業をした際に伝授された「北辰一刀流長刀兵法目録(ほくしんいっとうりゅうなぎなたひょうほうもくろく)」。長年、行方がわからなくなっていましたが、当園館長が入手して京都国立博物館で鑑定を行い、晴れて龍馬歴史館で展示することになりました。

ここには、鑑定を行っていただいた京都国立博物館学芸部列品管理室長 宮川禎一氏の貴重な所見を掲載いたします。

■概要(2015年11月7日付プレスリリースより抜粋)

 幕末の志士 坂本龍馬が、江戸の千葉道場で修業した北辰一刀流の免状「長刀兵法目録」一巻(安政五年正月吉日付)が、このほど高知で発見され、実物を坂本龍馬研究では著名な京都国立博物館 宮川禎一氏に調査依頼しておりましたところ、調査検討した結果、他の剣術目録と共通性があることなどから間違いなく坂本龍馬が道場主の千葉定吉より受けた免状(目録)であることが判明しました。

 「北辰一刀流長刀兵法目録」は、若い龍馬が江戸で鍛錬に汗を流した北辰一刀流の武術のうちの長刀兵法の目録で、安政五年一月(1858年2月)、龍馬24歳のときに、龍馬が修行した桶町千葉道場の道場主・千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられたと言われています。

 この目録は、千葉定吉の娘たちの名前 佐那・里幾・幾久(さな・りき・いく)が連なっているというユニークな形式から、以前は一部の研究者達の間で本物かどうかを疑問視する向きもありましたが、龍馬生誕150周年の年(昭和60年)に札幌市で公開された、文久三年(1863年)に龍馬が姉・乙女(おとめ)に宛てた手紙の中で、龍馬自身がこの目録の存在について言及していたため、真贋論争には終止符が打たれたと言います。

 また、この目録には、「龍馬の許嫁」と言われる千葉佐那(さな)の名前が記されており、佐那の名前が入った目録はこれだけとも言われています。したがいまして、龍馬と佐那の関係性を裏付ける唯一の物的証拠ともなる資料です。

北辰一刀流長刀兵法目録

■宮川禎一氏 観察と所見

目録(巻子)は古い桐箱入り
箱の蓋の表に墨書あり

「北辰一刀流長刀兵法 目録」

 その筆跡は目録本体の冒頭の筆跡と酷似しているので筆者は同一である可能性が極めて高い。江戸の道場で書かれた当初の箱のままであると推定される。(筆者は千葉定吉か)箱の裏側や蓋裏などに他の墨書は見られない。箱本体の両側面には蓋を固定するための紐を留める坐金具がある。オリジナルと見られる草色の真田紐は現在では切れかけている。箱本体の小口に横長のラベルを貼っていた痕跡があるが、はがれていて何と書いていたかは不明。

本体は巻子

 巻子の軸頭は六角形の水晶製。軸元の部分は金箔貼。紙の縁も金地。巻子の外装は白地に紺色で二重蔓の牡丹唐草文の表された金襴手風の布が用いられている。(外装の布は他の剣術目録にもよく見られるもの)巻子の紙背面は金箔散し。紙も厚手で密度の高い上質なもの。巻子外面には外題(題名)は無い。外装の端部は内部に細い金属の板が仕込まれている。巻紐は現在無く、あった形跡も無い。外装の内側(見返し)部分は紙に金地(金箔)を押したもので、ここに七星の図像がある。

見返しの「七星の図像」について

 見返しに表されている七星の図は一見そうには見えないが北斗七星を表している。

 金地に青色の七つの丸いしるし(●)が配されたもので中心にひとつ、その周りに六つの●が均等に配され、それぞれが墨線で繋がれ、全体が渦巻状を呈している。●は星のこと。この渦巻き配置の七つの星は北斗七星で良い。その証拠は渦巻きの最後、左下の星である。おたまじゃくしの尻尾のようなものが星から生えている。それは剣先の形を示したものである。この星こそ「揺光」、別名「破軍星」、すなわち北斗七星の柄の先端にあたる星である。

 「破軍星」(はぐんしょう)とは古代の中国で「その星に向かって戦えば必ず敗れ、その星を背に戦えば必ず勝つ」と伝えられた勝負の星である。古い星座図にも破軍剣先の図像が描かれる。平安時代後期から千葉氏(関東の武士団の雄)が信仰した妙見菩薩は北辰(北極星)の仏である。この目録冒頭にあらわされたこの七星の図像(七星紋・あるいは七曜紋。技の名前に「七曜剣」とあるのでこの図も七曜紋とすべきか)すなわち北斗七星の図像は千葉周作が開祖である北辰一刀流にふさわしいものといえる(ちなみに千葉家の家紋は三日月に星のいわゆる月星紋であり、これとは異なる)。

 調べれば千葉周作の剣術極意の歌にも破軍星は出てくる。意味は分かりづらいが「我が躰は破軍の星のかたちにて敵する方にまわす剣先」(後述の千葉周作が清河八郎に出した免状にその歌(道歌)が書かれている)。

 剣術の実際の指導では不明だが、千葉家伝来の北辰妙見菩薩への信仰が見返しの七曜紋やこのような道歌に表現されているのであろう。

 このような七曜紋をもつ目録の類品が複数確認される。

 まず山形県の清河八郎記念館が所蔵する清河八郎のもの二巻。

 「北辰一刀流兵法箇条目録」一巻

 これは嘉永五年二月に千葉周作が齋藤元司(清河の本名)に出したもので、見返しの部分に全く同じデザインの渦巻状の七曜紋が表されている。破軍星の剣先も同じデザイン。ただし星の色は赤色であり龍馬の目録の青色とは色だけが全く違う。

 「北辰一刀流兵法免許」一巻

 これは万延元年八月に千葉栄次郎・道三郎兄弟(千葉周作の次男三男、周作は安政二年没)が清川八郎(清河八郎)に出したもの。見返しには同じデザインの七曜紋がある。星の色はこちらは青色。破軍星の剣先は見えづらい。

 その他、写真コピーが残るだけだが、鳥取県立博物館が所蔵する「北辰一刀流兵法目録」元治元年三月に千葉定吉が平野告之丞(鳥取藩関係者か)に出したものの見返しにも龍馬のものと全く同じ七曜紋(破軍星に剣先付き)が表現されている(モノクロコピーのために星の色は不明)。

 この七つ星をデザインした「七曜紋」は北辰一刀流の「北辰」の象徴であり、目録が千葉家の発行した正式なものであることを示す証拠と見てよい。
(この七曜紋については今後も研究発展の余地があるようだ)

サイズ・材質

 巻子の紙面の縦は一七・九㎝。全長は見返しも含め 約二七○㎝(皺が厳しいために引き伸ばせないので「約」となる)

 紙は厚手で上質だが、現状では全体に縦折れが甚だしく見苦しい。また長期間広げていたらしく茶色に変色している(巻軸に近い部分が白い理由はそこを広げていなかったためであろう)。文字を記した部分は金線で罫線が引かれている。

技の科目について

 「北辰一刀流長刀兵法目録」につづいては長刀の技の型の名前が列挙されているが、その技の内容は実践によるものであり説明は難しい。なかには「草摺落」や「鞆砕」など技らしい名前もあるが「水玉」や「黒龍」など聞いただけでは想像できない名前が多い。

 茨城県在住で北辰一刀流を学んでおられる方からは、「水玉」や「黒龍」などは一般的な一刀流の伝書には出てこない技名なので千葉家家伝の「北辰夢想流」の技ではなかろうか、との教示をいただいた。

歌について

「浦風や浪のあらきに寄月の
あまたに見えて烈しかりけり」

 千葉周作が剣術の要諦を和歌のような形式で述べることが多々ある。「道歌」とも呼ばれるこの歌もそのような剣術心得のもので、海水面に写る月影が波に砕ける様子を剣術対戦の折の心構えにたとえたもの。

 前記の北辰一刀流を学んでおられる方によると「「実物の月」を敵に喩えて、それに対する「水面に映る月」(我)は、剣術道歌において、無心のうちに行われる、敵への適切な反応の比喩表現として使われることが多い」という。

 千葉周作が入門初心者に与えた道歌として「気ははやく 心はしずか 身は軽く 目はあきらかに 業は烈しく」が有名である。

 このような道歌は複数の剣術目録に記載されていることが確認されている。歌はそれぞれ異なっている。

目録伝授の記載

 ほかの複数の目録でも同じような意味内容の記載がある。

「(貴殿・龍馬殿は)北辰一刀流の長刀兵法の稽古に執心浅からず、組数相済み、其のうえ勝利の働き之あるに依りて家流始めの書であるこの一巻を差進め候。なお師伝を疑わず、切磋琢磨を以て必勝の實相叶うこと有るべく候。よって件の如し。」

多数の剣術先達の名前

 流派の祖先から北辰一刀流の成立・現在までを人名を挙げて書きつらねたもの。この龍馬の目録は千葉家の北辰夢想流の伝流について比較的詳細に記されている(ほかの目録ではここが省略されることが多い)。

千葉介常胤

 まず冒頭の千葉之介常胤は平安末~鎌倉初期の武将。千葉氏中興の祖。源頼朝の鎌倉幕府創建に関わった。千葉氏を関東有数の氏族としての地位を確立した人物。千葉氏は名前の下に「胤」を用いるのが通常。北辰一刀流千葉氏でも千葉重太郎が一胤を名乗るのもこの千葉氏の先祖たちから。

 十一代目とは千葉介常胤から十一代のちの陸奥国に移った千葉氏のことか。家伝の北辰夢想流の祖千葉平左衛門から八名の先祖が書かれる。千葉幸右衛門成勝が周作・定吉の父。この部分が詳しいのが特色である。

伊藤一刀斎

 桃山時代の伝説の剣豪。一刀流の始祖。こののち一刀流は江戸時代を通じて広まる。

神子上典膳(小野忠明)

 この神子上典膳も剣豪。伊藤一刀斎の流儀を継いだ。桃山江戸初期に活躍し、将軍秀忠の剣術指南役でもあった。小野忠明とも言い、小野派一刀流の祖となる。

千葉周作

 北辰一刀流の開祖。江戸時代後期の剣豪。寛政六年・一七九四年生まれ―安政二年・一八五五年没。奥州粟原郡(現宮城県)に生まれる。家伝の北辰夢想流と小野派一刀流の流れを汲む中西派一刀流(師は浅利又七郎。中西道場でも学んだ)を統合して文政年間に北辰一刀流を確立した。文政八年(一八二五)からは神田お玉が池に道場玄武館を移し拡大した。この道場は合理的な指導法により人気を集めた。周作の玄武館は神道無念流の練兵館、鏡新明智流の士学館とともに江戸の三大道場と呼ばれた。千葉周作は身長六尺近くと体格に恵まれ腕力技量も抜群であったとされる。教育者としても名高く、門弟の数も多かった。幕末維新の関係者も多くこの道場で剣術を学んだ。その代表が清河八郎である。この時期の江戸の剣術道場は単なる武術の道場ではなく日本各地から集まってくる若者(多くは下級の武士)の人的思想的交流の場としての意義があり、のちの維新史に果たした役割も評価されている。

千葉定吉

 この目録を発行した人物。千葉周作の実弟。千葉定吉は桶町に道場を置いたので、通称桶町千葉道場と呼ばれる。現在の東京駅八重洲口の前あたりに道場はあった。龍馬が江戸に修行に立った嘉永六年(一八五三年、ペリーが浦賀に来た年)には本家玄武館では千葉周作先生が高齢であった。ために玄武館ではなくこの桶町千葉へ通ったと言われる。龍馬が千葉定吉の道場で修行していたことをこの目録が端的に示している。明治十二年没。

千葉重太郎

 千葉定吉の長男。龍馬に剣を教えた実質上の先生。鳥取藩江戸藩邸に出仕し、鳥取藩士としても活動を行っている。明治十年代半ばには京都府の体育演部場の責任者となり明治十八年に京都で没した。明るく、話の上手な江戸っ子。

千葉佐那

 千葉定吉の娘。天保九年生まれなので龍馬より三歳下となる。後年、明治二十年代に新聞記者のインタビューを受けて「私は坂本龍馬と婚約していた」と話す。この目録に佐那・里幾・幾久の三姉妹の名前が入っているところがポイントだが、目録の性格が「長刀兵法」とあり、竹刀による剣術ではなく(剣術の場合はただ「北辰一刀流兵法目録」となる)長刀すなわち薙刀の免状だからであると推定される。佐那は龍馬の手紙(推定文久三年の乙女宛・北海道坂本龍馬記念館蔵)によれば「十四歳で皆伝した」とあるので若くして長刀を教えることができたらしい。例えばこの安政五年の二年前、安政三年には江戸広尾の宇和島藩屋敷で藩主伊達宗城の義妹である政姫に剣術(長刀)を教えていたという記録がある。またこの政姫に皆伝を出したとも佐那は語っている。坂本龍馬の「長刀兵法目録」に長刀の師として名前を連ねる実質的な資格はあったとみて良い。明治二十九年没。

目録を書いたのは千葉定吉

 末尾前の朱印と花押は政道、すなわち千葉定吉発行を示している。千葉定吉が発行した別の剣術免状の写し(写真コピー)が鳥取県立博物館に収蔵されているが、それと比較すると印も花押もこの龍馬の目録と一致することが確認されたので、この目録も記載どおり千葉定吉発行として問題ない。

 「政道」の筆跡は定吉の自著(署名)以外に考えられない。この「政道」の特徴的な書体はこの目録全体に統一的であるので、箱書きから目録全文を道場主の千葉定吉の筆になるものと解釈することができる。

この目録の意義

 この目録はその存在が知られながらも、研究者がなかなか目にすることができなかったために、その内容を十分に検討することはできなかった。しかし今回、実物にあたってある程度検討することができた。さらには清河八郎の剣術目録など類似の目録との比較検討したことによって、この目録が間違いなく千葉定吉が龍馬に発行したものであることが明らかとなった。その結果、安政年間の坂本龍馬の桶町千葉道場での長刀修行の成果を明確に示す資料であることが改めて検証されたのである。

 龍馬の剣術免状については最近高知県立坂本龍馬記念館が発表したが、明治四十三年段階で三巻の「秘伝」が坂本家にあったことを坂本弥太郎が書き残している。その三巻とは

「北辰一刀流兵法箇条目録」
「北辰一刀流兵法皆伝」
「北辰一刀流長刀兵法皆伝」

 だと記載されている。さらに昭和四年段階の弥太郎の記載では「千葉周作ヨリ受ケタル皆伝目録ハ全部焼失セリ 於釧路市」とある。最後の「北辰一刀流長刀兵法皆伝」が大正二年十二月の釧路市大火で燃えたとするなら、今回検証した「北辰一刀流長刀兵法目録」は別の場所・別の所蔵者が釧路以外で保管していたことになる。(皆伝と目録を同一のものとみて、何らかの理由で焼けなかったとする考え方もありうるが、現状は不明とするしかないようだ)

 坂本弥太郎氏の「記録」とこの「目録」が今年になって相互検証されるようになったのはまったくの偶然ではあるが、坂本龍馬の剣術修行の成果を表す確実な歴史資料として今後は高く評価されるべきであろう。 また龍馬が桶町千葉道場の人々と深く関わっていたであろうこともこの目録の人名記載から明らかである。

 では坂本龍馬と清河八郎以外に比較することのできる北辰一刀流の目録・免状は存在しないのであろうか?これは現状ではまだ充分に調べを尽くしていないので、今後も同様の北辰一刀流の免状が出てくる可能性はある。現在北辰一刀流を実際に学んでおられる方によれば、「剣術が廃れて百年以上になるので、子孫が大事にしない限りその価値が分からなくなり廃棄されたものも多いのでは」との回答であったが、「きちんとアンテナを張れば比較的多くあるかとは思います」ともいうことだ。龍馬と清河八郎の目録が残っており、このように知られているのは彼らが有名人だったためであろう。

龍馬は剣が強かったのか?

 この「北辰一刀流長刀兵法目録」を仔細に見ればきわめて丁寧に作成されたものであり、時間も材料費もかかっている。文字も丁寧で全体のバランスもよい。家伝の北辰夢想流の先祖系譜もきちんと書いている。残された数少ない北辰一刀流目録の中でも(今のところ)これが一番上質に見える。

 安政年間当時の江戸で勢力を占めていた北辰一刀流の道場主(千葉定吉)自らが筆をとって書いたことからも、簡単に入手できるものではないだろう。坂本龍馬が高知へ帰れば「北辰一刀流」の看板を掲げて道場が開けるレベルだと認められたからこそ剣術や長刀の目録・皆伝が与えられたと見るべきである。

 剣術こそは真に実力主義であり、身分が高い(大名の子弟)とか、金銭を積めば(商人の息子とか)なんとか目録がもらえるようなものとは考えられない。竹刀で立ち会えばすぐさまその実力が明白になるからである。

 仮に実力の無いものに情実で免状を出したりすれば、北辰一刀流の名折れとなり、他流派から蔑まれることになるはずである。

「やはり坂本龍馬は強かった」が結論でよい。

平成二十七年十一月五日
宮川禎一(みやかわ ていいち) 京都国立博物館学芸部列品管理室長