大野充彦『龍馬の小箱』(8)
幕末情景展覧会


先日、『土佐史談』第39号(昭和7年<1932>6月刊)を手にとり、何気なく目次を見ていましたら、「彙報」(いほう)の欄に、「幕末情景展覧会」という題名がありましたので、急いでそのページを開けました。

「彙報」の欄によれば、昭和7年<1932>2月10日から25日まで、当時の「大阪市堺筋白木屋」において、大阪史談会の後援による「幕末情景展覧会」が開かれた、とのことです。この展覧会は、「米国使節渡来に関するもの」とか、「桜田門事変(さくらだもんじへん)に関するもの」、「和宮御降嫁(かずのみやごこうか)に関するもの」というように、項目別(テーマ別)に関連資料が展示されたようです。

「米国使節渡来に関するもの」の項では、ペリーの肖像(写真)1枚が京都尊攘堂から、ペリー浦賀入港当時実況絵巻1卷が堺市岡村善太郎氏からそれぞれ出品された、ということも分かります。出品名、提供者名が併記されているのです。

「桜田門事変」というのは、いまは「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)と呼ばれている事件のことです。大老の井伊直弼(いいなおすけ)が万延元年(1860)3月3日、彦根藩の江戸藩邸から江戸城へ出仕する途上、水戸(みと)の尊攘(そんじょう)過激派によって暗殺された事件です。

2010年は、NHK大河ドラマ「龍馬伝」が放映された年ですが、同じ年、「桜田門外ノ変」という映画が上映されました(監督・佐藤純彌、主演・大沢たかお)。水戸藩士の関鉄之介(せきてつのすけ)の視点から、時代に翻弄(ほんろう)された人々の悲劇が活写された秀作でした。

歴史上の出来事の呼称が変わることはよくあることです。私が中学生の頃は(東京オリンピックの年、1964年の前ということですが)、「承久(じょうきゅう)の乱」(1221年)は「承久の変」と呼んでいましたし、私たちの年代がかつて「東学党(こうがくとう)の乱」と覚えていたものは今、「甲午(こうご)農民戦争」と呼ぶことになっています。

前者は、単なる事変ではなく、大きな内乱と考えるべきだということで「承久の乱」と呼ばれるようになったわけです。後者は、多くの農民も参加した、まさに戦争と呼ぶべき動きだった、ということで呼称が変わったのです。これからも研究の深化にともなって、歴史上の呼称が変わることはあるでしょう。

昭和7年<1932>1月8日といえば、大阪で「幕末情景展覧会」が開かれる直前に当たるわけですが、この日は東京で陸軍観兵式がおこなわれ、その式典に臨んだ天皇が皇居に帰る時、桜田門外で手榴弾を投げつけられる、という事件が起きました。この事件を歴史上、「桜田門事件」と呼びます。その絡みでしょうか、「桜田門事変」は「桜田門外の変」と言い換えられ、今日に至っています。

前置きが長くなりましたが、昭和7年の「幕末情景展覧会」で、「寺田屋事変に関するもの」として出品されたものは、有馬新七(ありましんしち)関係のものと坂本龍馬関係のものが一緒になっています。

『土佐史談』第39号所収の「彙報」記載の一部を新字体で引用します。

  •    寺田屋事変に関するもの (文久年間)
  •      ○ 寺田屋事変の際使用せし烈士遺物(槍穂先)鞘付一個 京都図書館出品
  •      ○ 有馬新七墨蹟一幅 同同
  •           <中略>
  •      ○ 有馬新七所持朱鞘太刀一振 京都佐竹藤三郎氏出品
  •      ○ 坂本龍馬君の戯画幅一幅 京都図書館出品
  •      ○ 坂本龍馬君墨蹟一巻 京都図書館出品
  •           <中略>
  •      ○ 坂本龍馬君写真一葉 高知武市佐市郎氏出品
  •           <中略>
  •      ○ 坂本龍馬着用陣羽織一重 京都高橋新之助氏出品

有馬新七は尊攘派の薩摩藩士です。彼は、藩内の急進派をリードして挙兵を計画していましたが、島津久光(しまづひさみつ)の意向と違ったために文久2年(1862)4月23日、京都の船宿・寺田屋に集結していたところを「上意討ち(じょういうち)」されました。薩摩藩士同士の死闘となったこの事件を今、寺田屋騒動と呼びます。

いっぽう、坂本龍馬が寺田屋で襲撃されたのは慶応2年(1866)年1月24日未明のことです。寺田屋騒動から3年半以上経っています。両事件が同じ寺田屋で起きた、ということで一括されたのでしょう。

ここで注目したいのは、昭和7年の「幕末情景展覧会」で出品された龍馬の写真です。出品者は武市佐市郎(たけちさいちろう)、となっています。

彼は戦前の土佐史学界を代表する研究者で、現在もその業績は高く評価されています。この武市佐市郎のご子息・祐吉氏は、佐一郎旧宅に遺されていた龍馬の写真原板を昭和57年(1982)12月、高知県に寄贈なさいました。

武市祐吉氏の「坂本龍馬写真の原版など龍馬についての話題」(『土佐史談』170号<昭和60年11月刊>所収)には、次のような記述があります。

昭和3年5月、桂浜の東端、竜頭崎の旧灯台跡に、遠く遮るものもない海の彼方をみすえているあの龍馬の銅像が若き青年達の手によって建ったとき、銅像製作者の本県出身の彫塑家、本山白雲(辰吉)氏は、父と話しあって、龍馬の代表的な写真であるこの原版を基として製作した。

昭和3年(1928)にできた桂浜の龍馬像は、武市佐市郎が当時所蔵していた写真に基づいていたのです。

今回、紹介しました「幕末情景展覧会」は、昭和7年に大阪で開催された展示会です。龍馬の銅像は昭和3年に完成しています。時期から考えてみると、武市佐市郎が「幕末情景展覧会」に出品した龍馬の写真は、武市がかつて所蔵し、今は高知県立歴史民俗資料館に収められている「ガラス原板」から焼き付けられた可能性がきわめて高い、と思われます。

昭和4年に刊行された『土佐勤王志士遺墨集』(青山会館編/アクトランド所蔵)という豪華本にも、同じ龍馬の写真、つまり、世間で一番有名な、懐手(ふところで)の立ち姿の写真が掲載され、「高知 武市佐市郎氏蔵」と明記されています。おそらく、「幕末情景展覧会」の関係者たちは、桂浜の龍馬の銅像はもちろんのこと、その元になった龍馬の写真の所蔵者が武市佐市郎であったことも熟知していたのでしょう。彼に出品を要請し、そして展覧会の「目玉展示品」に、と考えていたのではないでしょうか。