大野充彦『龍馬の小箱』(10)
坂本龍馬の最期をめぐって


講演日時: 2013年7月16日(火)
講演場所: 高知会館 (高知市衛生組合連合会での特別講演)

江戸へ剣術修行におもむいた頃の若き龍馬は、当時の全国の若者同様、情緒的な攘夷論者にすぎませんでした。しかし、勝海舟(かつかいしゅう)をはじめ、開明的な論客と出会うたび、古い封建制度のしがらみを1つ捨て、また1つ捨て、といった調子で成長していきます。ただ、日本の幕末維新は、絵に描いたようなブルジョワ革命でもなければ、真の民主主義を樹立させた革命でもありませんでしたから、「大政奉還」という、いかにも日本的なプロセスを経ることになります。龍馬が「大政奉還」実現のために奔走したことは、本日お集まりの皆さまもご存じのことと思います。

龍馬が「大政奉還」に向けてさまざまな行動をとるようになりますと、徳川将軍家の専制政治の存続を願う人々にとって、龍馬は「目の上のタンコブ」のような存在になってきます。寺田屋で襲撃された時は、お龍さんの機転で何とか難を逃れますが、「大政奉還」が実現した後、ついに龍馬は殺されてしまいます。

私が現在、顧問をしております野市町のアクトランドは、旧来の蝋人形館をリニューアルした龍馬歴史館のほか、絵金派アートギャラリー、KUMA’Sコンテナギャラリー(金属アーティストとして世界的に有名な篠原勝之氏の作品が展示されています)、世界モデルカー博物館、ニーオアフリカンギャラリー、世界クラシックカー博物館、ボンネットバス博物館、世界偉人館の8施設を併設し、今年オープンいたしますが、龍馬歴史館内には、階段を駆けのぼっていくお龍さんの姿が再現されています。お龍さんの太ももをどこまで見せるか、先月もスタッフ会議で検討されました。私はもっと上まで、と主張したのですが、どうなったか、その点はオープンしましたら、皆さまの目でご確認ください。

お龍さんは晩年、「龍馬が暗殺されたことは11月17日の早馬(はやうま)で知った」と述べています。しかし、お龍さんは当時下関におり、そこで事件を知ったのは長崎経由の一報で、それは12月2日頃だったようです。お龍さんはまた、「暗殺の真犯人は身内にいる」とも語っていたらしいのです。「身内」とは、薩長土肥のことか、海援隊か、となるわけです。龍馬が暗殺されましたのは、慶応3年(1867)11月15日の夜です。明治の夜明けの直前で、いまからせいぜい150年ほど前のことです。それも著名人が殺された事件なのです。ですから、真相はよく分かっているはず、と思いがちなのですが、実は分かっているようで、よく分かっていません。謎だらけ、ということを私は本日、強調したいのです。

龍馬暗殺の真相がよく分からないため、いまだにいろんな説が話題になっています。しかし、どんな説にも必ず問題点があります。たとえば、お龍さんですが、彼女はなぜ、晩年になって真相を語り出したのか、その点が不思議ですし、興味深くもあるのですが、当事者の証言といっても、晩年の証言ともなれば、すべてを信じるわけにはいきません。お龍さん以上にリアルな証言を残している人物がいます。それは、暗殺の実行犯のひとりだった今井信郞(いまいのぶお)です。そして、暗殺現場に駆けつけ、まだ息があった中岡慎太郎(なかおかしんたろう)から直接話を聞いたという、土佐出身の谷干城(たにたてき)です。

龍馬が暗殺された直後の土佐藩関係者は、新選組の10番隊長・原田佐之助(はらださのすけ)が犯人だと思い込んでいたようです。龍馬を斬ろうとしたとき、犯人は「こなくそ」と叫んだ。この「こなくそ」は伊予の方言。松山藩出身の剣客・原田が犯人に違いない、というわけです。ただ、この説はいま、否定されています。「こなくそ」という方言は伊予以外でも使われていたそうです。自分こそが真犯人だ、という男が現れました。それが今井信郞(いまいのぶお)です。彼は明治3年(1870)2月、明治新政府の取調で自供します。それ以来、龍馬を殺したのは京都の見廻り組だった、というのが定説になっています。

今井信郞の証言にも疑問がいくつもあります。明治3年の取調では、龍馬暗殺を命令したのは小笠原弥八郎(おがさわらやはちろう)で、龍馬を直接斬ったのは佐々木唯三郎(ささきたださぶろう)、自分は新参者で、単に見張りをしていただけ、と証言していたのですが、晩年は自分が斬った、これが龍馬を斬った刀だ、と言っていたようなのです。今井は明治3年の取調以後、投獄されますが、明治5年に釈放され、静岡県でお茶づくりをします。その間、龍馬暗殺のことに触れた形跡がないのに、どうして明治の終わり頃になって証言を翻し、自分が斬ったと言い出したのか、これも妙な話です。暗殺指令を発したとされる小笠原弥八郎は取調の際、「自分は無関係。配下の行動を知らなかったのは無念であり、恐れ入る」と詫びただけ、というのです。明治3年の取調はいとも簡単に終わっています。いまから思えば、不自然とさえ感じられるほどです。

土佐出身の谷干城(たにたてき)は、今井のことを「売名奴」と呼び、激昂します。しかし、瀕死の重傷を負いながらもまだ口がきけた、という中岡慎太郎から一部始終を聞いた、という谷の証言にも矛盾点があるようです。暗殺現場にいた中岡の証言が一番正しい、とは言い切れないのです。なぜなら、中岡は相当パニックに陥っていたと思われます。中岡慎太郎の証言は、そのように受け止めるべきでしょう。真犯人という佐々木唯三郎が生きていればよかったのですが、彼は戊辰戦争で死にます。取り次いだ下僕は最初に斬られます。近江屋の者たちは一階の隅に追いやられていました。明治維新以後になりますと、龍馬の暗殺現場を直接見たという人間は結局、誰も生存していなかったわけです。

疑問は尽きません。たとえば、近江屋の二階の座敷の掛け軸「梅椿図」(うめつばきず)には龍馬の血が付いていますが、付いている箇所が下の方ですから、龍馬は座ったままの状態で斬られたと思われます。しかし、斬った相手が龍馬を斬る直前、龍馬の前に座っていたのかどうか、いまも謎です。暗殺者たちが近江屋で見せたという名札(なふだ)が現場から見つからなかったのは何故なのか、これも謎です。龍馬の暗殺を指令したのは誰か。暗殺の直接的な動機、理由は何だったのか。これまた謎です。

私なりにさまざまな説を整理してみますと、近江屋の入り口で暗殺者が「十津川郷士(とづがわごうし)」だと嘘の名乗りをあげた、ということが述べられているものは、土佐の関係者の証言を重視していることが分かります。いっぽう、「松代(まつしろ)藩の者」と名乗った、というように書かれたものは、幕府側の人間の証言に重きを置いている傾向があります。

横井小楠(よこいしょうなん)という人物は、幕末における最高の知識人で、開明的な論客だったのですが、明治初年に暗殺されます。日本を開国させ、混乱を招いた張本人として、かつての攘夷論者によって暗殺されるのです。この事例を重視しますと、龍馬が明治の夜明けまで活躍していたとしても、いずれは暗殺される宿命だったのかもしれません。

以前、親日家の駐日大使・ライシャワーさんと土佐藩政史研究者の平尾道雄(ひらおみちお)さんの座談会で、「土佐の男は若くして死なないと有名になれませんね」という発言があったといいますが、ご両人は当然、龍馬を念頭に置いていたと思います。しかし、有名になるだけが人生の目的ではありませんし、暗殺されたんじゃ遺族は堪りません。ただ、暗殺される直前の龍馬は、先ほども申しましたように、居場所が狭くなってきていました。明治以後に暗殺される可能性もあったと思います。そのように考えれば、不謹慎な言い方になりますが、近江屋で暗殺されたのが一番「散り際がよかった」のかもしれません。