大野充彦『龍馬の小箱』(12)
海援隊の規約


海援隊(かいえんたい)の前身である亀山社中(かめやましゃちゅう)は慶応元年(1865)、勝海舟(かつ・かいしゅう)や西郷隆盛(さいごう・たかもり)らの協力により、長崎の港や長崎奉行所などが見下ろせる高台に創設されました。亀山社中には独自の規約がなかったのですが、海援隊の規約は慶応3年(1867)4月に制定されました。幕末に結成された諸組織の盟約の多くは抽象的な内容が多いのですが、海援隊のそれは具体的です。位置づけも明確でした。

「海援隊約規(かいえんたいやくき)」というのが正式名称です(以下では、「約規」と略記します)。龍馬の真筆と判断される「約規」は弘松家に伝わっています。また、京都国立博物館に所蔵される「海援隊日史(かいえんたいにっし)」には、龍馬の脱藩罪赦免、海援隊隊長任命を同時に伝える通達文に続き、「約規」が併記されています。

松浦玲(まつうら・れい)著『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)では、「海援隊日史」は長岡謙吉(ながおか・けんきち)のメモ、「約規」は福岡孝弟(ふくおか・たかちか)の作成、と推測されていますが、龍馬真筆と「海援隊日史」との関係については詳しく触れられておりません。龍馬の意思は「約規」起草段階で、どのように反映されていたのでしょう。弘松家所蔵の「約規」は、出来上がった「約規」を龍馬が写し取ったものなのでしょうか。あるいは、「約規」の草稿のひとつと考えてもよいのでしょうか。その点の考察は後日の課題としておきます。

「約規」の冒頭を原文のまま引用しますと、「凡嘗テ本藩ヲ脱スル者及侘藩ヲ脱スル者海外ノ志アル者此隊ニ入ル……」のようになっています。「一(ひとつ)、……」という箇条書きにはなっていないのです。でも、「凡(およそ)」云々の文章が5つ書き連ねられ、末尾に「五則」という表現がみられますから、「凡」という文字は「一」に当たるわけです。このように字句にこだわると、解説が長くなりますので、以下では現代語に直し、要約的に紹介することにします。

第1条の前半部分はすでに前項で引用したわけですが、かつて土佐藩を脱藩した者および他藩を脱藩した者、そのどちらであっても「海外の志」を抱く者であれば入隊できる、というわけです。海援隊は特定の主君を有さない有志の集団として組織されたのです。第1条の後半部分では、運輸、射利、開拓、投機などで利益をあげ、土佐藩を応援するのが目的である、と述べられています。「射利」とは、「利を射る」ということだとすれば、企業のように利益をあげる、という意味なのでしょう。「海外の志」を有する者たちが営利活動を通して土佐藩を支援する集団と位置づけられたのです。海援隊は他に類例をみない組織として発足したのです。

第2条は隊長に関する規定です。隊中のことはすべて隊長の処分に任せる。隊長の処分に違背してはならない。もし、問題行為が起きた場合、隊長がどんな処分を下そうが許される、と明記されています。原文では「隊長、その死活を制するもまた許す」となっています。隊員の処罰権はすべて隊長に帰属する、ということです。家中に対する仕置権(処罰権)は大名が有していたのが江戸時代です。第2条は、脱藩者の集団である海援隊には大名の仕置権が及ばなかった、とみることができます。私はここに幕末の特質のひとつを見た思いがするのです。

第3条は、隊中では相互に助け合い、規律を正し、仲間の妨げになるような勝手な言動は慎むべきである、と隊員に対する注意が喚起されています。第4条は、隊での修業内容を列挙し(たとえば、政治や航海術、語学など)、怠慢を戒めています。そして第5条では、海援隊の運営は営業利益でおこなうものの、もし不足などが生じれば、「出崎官」からの支給を待つ、と書かれています。「出崎官」とは長崎に出張中の役人、という意味なのでしょうから、具体的には後藤象二郎(あるいは後藤に代わる権限者)を指すものと考えられます。海援隊は土佐藩の支援で創立されたのですが、本藩ではなく、長崎在住の土佐藩役人の管轄下に置かれたのです。

「約規」の制定に関し、龍馬がどの程度力量を発揮したのか、その点を私は明らかにできないのですが、「約規」は海援隊と土佐藩の間で取り交わされた一種の契約書とみることができると思います。海援隊は、独立採算制の団体でありながら、土佐藩を支援する、しかし赤字が生じれば土佐藩の援助を受ける、という相互扶助的な関係を土佐藩と結んだのです。このような「約規」を掲げた海援隊は画期的な団体だったと強調しても大過ないはずです。

海援隊の隊士は約50名だったといわれています。多くの土佐人が参入していました。そんな関係で、たとえば今年、高知県の安田町と高知県立坂本龍馬記念館の連携企画展「龍馬と安田の海援隊士-石田英吉・高松太郎展-」が「安田まちなみ交流館・和」において開催されています(会期:平成25年6月1日~11月26日)。

「約規」と同時に、「二曳(にびき)」と呼ばれる「赤白赤」の旗(船印)が制定されました。この「二曳」は、岩崎弥太郎(いわさき・やたろう)の関係で、今の日本郵船(にっぽんゆうせん)株式会社のファンネルマーク(船の煙突にペンキで塗られる会社のマーク)に受け継がれています。

陸援隊(りくえんたい)も海援隊と同時に創設されることが決められました。龍馬とともに脱藩の罪を免じられた中岡慎太郎(なかおか・しんたろう)が隊長となります。隊士は約70名だったと伝えられています。陸海両面から土佐藩を支援しようというわけです。藩の直属ではない、という点も海援隊と同じ扱いでした。