大野充彦『龍馬の小箱』(14)
落款あれこれ


幕末維新期に活躍した人物の書画は明治以降、いろんな所で展示され、多くの人々に観賞されてきました。この種の品は、歴史学の史料として取りあげられることはほとんどありませんが、骨董の世界では思いのほか高値がつくことがあります。

古美術の専門家に聞けば、歴史上の著名人が書いた書画が美術的な価値、つまり墨の濃淡など筆づかいの味わい深さを有していれば、間違いなく高値で売れる、とのことです。

今回はそんな書画に押された「落款(らっかん)」をめぐる話です。

落款とは、「落成款識(らくせいかんし)」の略で、書画が完成したことを表すものです。ですから、人に見てもらおうとして作成された書画には落款が押されます。「款」は、陰文(いんぶん)とか凹字(おうじ)とも呼ばれ、文字は陰刻(いんこく)されます。つまり、文字部分だけが白く表れます。「識」は、「款」の反対です。陽文(ようぶん)、凸字(とつじ)の別称があり、文字は陽刻(ようこく)されます。文字部分が浮き彫りにされるのです(今の印鑑の多くはこの彫り方です)。

落款は通常、「款」と「識」の両印が書画の左下に押されます。「款」の下に「識」が押されるのです。上下の順は「款識」順、と覚えればよいでしょう。印の形はともに正方形という決まりになっていますし、「款」は姓名、「識」は雅号、というのが通例なのですが、そうなっていない品もよく見かけます。

落款は、「三顆(さんか)」という言葉があるように、「款」と「識」のほか、もう1つの印も含め、3印1セットにする例が多く見受けられます(というより、3印1セットこそが落款というものなのですが、そうなっていない掛け軸もあります)。もう1つの印とは書画の右肩に押される印で、「関防(かんぼう)あるいは「関防印」といいます。「関防」は長方形の印に、吉語(縁起の良い字句)を刻むのが通例です。

落款などの印を木や石に刻む人のことを篆刻家(てんこくか)といいます。土佐で一番有名なのは壬生水石(みぶ・すいせき)でしょう。彼は寛政2年(1790)、高知城下の唐人(とうじん)町に生まれた武士でしたが、武芸のほかに南画を得意としていましたし、「土佐の印聖」と称されるほどの篆刻の名人でもありました。有名な松平春嶽(まつだいら・しゅんがく)や、豊後日田出身の儒者・広瀬旭荘(ひろせ・きょくそう)、上方文人の代表格・篠崎小竹(しのざき・しょうちく)などから雅印の注文が殺到したといわれています。山内容堂(やまうち・ようどう)は「頼山陽の史癖、容堂の酒癖、志摩介(壬生水石の通称)の印癖。これ″日本の三癖″なり」と称したらしく、それを知った水石は死の前年、「日本三癖」という刻印を完成させたと伝えられています。

壬生水石は明治4年(1871)に死去します。山内容堂はその1年後に亡くなります。このふたりは身分が違い、生きた世界もまったく異なるのですが、書画の世界では深く結びついていました。両人を結びつけたのは御典医・池田敬斎(いけだ・けいさい)だったようです。今に残る容堂愛用の雅印のうち、水石の手によるものはどれなのでしょうか。高知市民図書館には若尾文庫という特殊文庫が架蔵されています。一時期正岡子規(まさおか・しき)の弟子であった俳人であり、画家として、あるいは収集家としても活躍したのが若尾瀾水(わかお・らんすい)で、彼の旧蔵品を今に伝える文庫が若尾文庫です。その架蔵本中に、「水石先生篆刀印影」という一書があります。水石自身には「君上信影」があります。それらを精査し、壬生水石の存在に想いを馳せつつ、容堂の条幅を観賞したいものです。

詩や書に長じていた山内容堂は多くの秀作を残しています。彼が使用した印は、『容堂公印譜』によれば100顆(か)を超えます。もっとも有名なのは「鯨海酔侯之印(げいかいすいこうのいん)でしょう。「鯨が泳ぐ海の水ほど大酒を呑む酔いどれ大名」という、自虐的というのか、諧謔(かいぎゃく)を弄したような印文です。酒を意味する「美禄」、唐の詩人・王績(おうせき)が五斗は酒を呑んだという伝記に自分を重ねた「五斗先生」、そのものズバリの「無日不酔(よわざるひなし)」もよく知られています。

山内容堂の書は、敬慕した頼山陽(らい・さんよう)の筆致に学んだようで、両者の書はよく似ています。ただ、頼山陽に魅せられたのは容堂に限ったことではなく、幕末の書には頼山陽の影響が色濃く滲んでいるように思います。ということは、頼山陽の書を会得した者であれば、幕末の著名人複数の書を捏造(ねつぞう)することは意外に簡単だと推測されるのです。書に比べれば、落款の贋作はもっと容易です。真贋を見極める鋭い眼力が問われることになります。