大野充彦『龍馬の小箱』(16)
武市富の墓碑銘


武市富の墓碑銘私が訪れた日は2013年12月22日。寒い風が吹き荒れていました。南国市との境近く、高知市仁井田(にいだ)の地に、武市半平太(たけち・はんぺいた)の旧宅があります。同所には、瑞山(ずいざん)神社、その拝殿を兼ねた瑞山記念館もありますが、今回の私の探訪目的は武市半平太の妻・富(とみ)の墓石でした。

瑞山記念館から右奥に続く石段をのぼっていくと、武市半平太夫妻の墓が仲良く並んで建っています。向かって右側が半平太の墓、左が武市富の墓で、富の墓は夫よりひとまわり小さく作られています。墓石正面には「武市富之墓」と大きな文字で刻まれています。私はその側面、背面に刻まれた墓碑銘を確認したかったのです。

武市夫妻の墓前には花が手向けられていました。私は荷物を脇に置いてひざまずき、そっと両手を合わせました。それから富の墓石の背後にまわろうとしたとき、若い男女が現れました。県外の観光客のようでした。軽く会釈し、場所を譲りました。お二人は仲良くお参りをなさって帰っていきました。

武市富の墓碑銘私の知人がすでに墓碑銘の写真を撮り、拡大した画像を見せてくれていたのですが、どうしても判読できない文字が10字ほどありました。「贈正四位武市小楯」と刻まれた「贈」の上、「皇后陛下」の「皇」の上などが写真では読めなかったのですが、実見すると、それは闕字(けつじ)といって、貴人の名などを書く際、1字空けて敬意を表するものであることが分かりました。判読できなかったのではなく、最初から文字は刻まれてなかったのです。いっぽう、文字は確かに刻まれているのですが、どうしても読めない文字が5字ほど残りました。

武市富の墓碑銘は養子の半太によって、大正7年(1918)4月につくられました。富が病没したのは前年4月23日でしたから、一周忌に刻まれたものと思われます。武市夫妻には実子がありませんでしたから、養子が迎え入れられたのですが、養子・半太は高岡郡の梼原(ゆすはら)で医者をしていました。

養子・半太の撰文は1行19字、本文23行という長文です。430字ほどあります。漢字とカタカナで刻まれ、解読に苦労するほどの撰文ではないのですが、それでも無学な私のことですから、「刀自(とじ)」(主婦に対する敬称)とか、「祭粢料(さいしりょう)」(供物料)とか、「優渥(ゆうあく)」(天子の恵み)などの熟語は辞書を引かないと意味が分かりませんでした。

前置きがすっかり長くなりました(私は世間で、「前置きの大野」と呼ばれています)。武市富の墓碑銘は次のような内容になっています(一部を意訳して紹介することにします)。

富(撰文では富子と表記)は天保元年(1830)5月18日、郷士(ごうし)・嶋村源次郎の長女として、香美(かみ)郡下島(しものしま)村に生まれ、20歳で半平太に嫁いだ。夫婦睦まじく過ごし、夫の切腹(半平太は慶応元年<1865>閏5月11日に切腹した)後は逆境に耐え抜いた。
明治24年(1891)5月に初めて上京し、明治天皇の皇后より縮緬(ちりめん)1疋(いっぴき)と金100円を下賜された。明治39年(1906)東京に移住したが、同43年(1910)5月10日には再び縮緬1疋と金100円を下賜され、さらに翌年8月24日には多年の貞節を誉められ、金3000円下賜の恩命を受けた。9月10日には御前に召され、縮緬1疋の恩賜を拝した。山内侯爵家からは慰労年金200円を贈与された。
明治45年(1912)4月、半太夫妻と帰郷し、高岡(たかおか)郡梼原(ゆすはら)にて5年ほど過ごしたが、大正6年(1917)病気となり、同年4月23日高知にて死去した。享年88。

縮緬とは絹織物の一種で、武市富は長さ20メートルほどの生地を拝領した、と解釈すればよいのでしょう。注目すべきは、それを明治天皇の皇后から下賜された、という事実です。明治天皇の皇后はのち、昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)と称されることになりますが、徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)に嫁いだ美賀子(みかこ)は義理の姉にあたります。

明治37年(1904)2月、日露戦争が始まろうとしていた夜、葉山の御用邸に滞在中の昭憲皇太后の夢枕に白衣の武士があらわれ、日本海軍の守護を誓ったというのです。不思議に思った皇太后のご下問を受け、土佐出身の宮内大臣・田中光顕(たなか・みつあき)は龍馬の写真を見せ、白衣の武士は龍馬の霊にちがいない、と応えたそうです。新聞各社はこの皇太后の夢枕の話を「皇后の奇夢(きむ)」と報じたため、国民の多くは歓喜して日本軍の大勝を待望した、といわれています。

武市半平太の妻・富と龍馬は、明治の後期に昭憲皇太后を介する形をとりながら、わずかながらもつながることになったのです。富は半平太の妻、という生涯を全うしたからこそ、何度も皇太后の恩恵に浴したわけです。そのように考えれば、富が龍馬と半平太のつながりをもたらせた、ということもできるでしょう。