大野充彦『龍馬の小箱』(19)
龍馬の訪問者


文久3年(1863)といいますと、龍馬は29歳、幕臣の勝海舟(かつ・かいしゅう)のもとで航海術を学び、大きな飛躍を遂げる年です。そんな龍馬にすがろうと、ひとりの男が訪ねて来ます。彼は廣井磐之助(ひろい・いわのすけ)と名乗りました。土佐人でした。

廣井磐之助は天保11年(1840)生まれですから、同6年に生まれた龍馬より5歳年下だった、ということになります。当時の土佐郡小高坂(こだかさ)村に生まれた軽格の子でしたが、父親の大六(だいろく)は安政2年(1855)10月、潮江天満宮(うしおえ・てんまんぐう)のお祭りの日に非業の死を遂げます。磐之助が16歳になる年の悲劇でした。 

廣井磐之助の父親は、お祭りの酒に酔った藩士・棚橋三郎(たなはし・さぶろう)のため、舟から突き落とされ、水死したのです。当時は身分制が厳しかったので、上の身分だった棚橋にからまれた以上、廣井磐之助の父親は抵抗もままならなかったのではないかと思います。現在の常識からすれば、廣井大六は被害者です。しかし、「喧嘩両成敗」が適用され、棚橋三郎は藩外追放となり、廣井家は家禄を没収されてしまいました。

廣井磐之助は密かに仇討(あだう)ちを決意します。血気盛んな若者だったのでしょう。居合術を学んだ後、父親の仇・棚橋三郎を探すべく、国外に出ようとします。しかし、正規の願書を出さなかったためか、捕えられて「禁足(きんそく)処分」を受けます。自宅謹慎の身になってしまうのです。

廣井磐之助はやっと文久3年(1863)、槍術修業の名目で土佐を出ることができました。でも、行き倒れになるなどの辛い旅を続けたようです。そして、大阪滞在中の龍馬を訪ねたのです。龍馬の師・勝海舟(かつ・かいしゅう)は情の厚い人物でしたから、八方手を尽くし、紀州に潜伏していた棚橋三郎を見つけ出します。紀州藩から棚橋の身柄を拘束したとの連絡が届くと、彼は廣井磐之助の助太刀(すけだち)として千屋寅之助(ちや・とらのすけ)と佐藤与之助(さとう・よのすけ)を派遣します。紀州藩は領内での騒ぎをさけるため、棚橋三郎を泉州(現在の大阪府)側へと追放します。廣井らはそれを待ち受け、みごと棚橋三郎を討ち取るのです。この仇討ちは戦前、「最後の仇討ち」と喧伝されましたから、廣井磐之助の名は全国に知れ渡っていました。

龍馬は文久3年(1863)6月16日、池内蔵太(いけ・くらた)の母親に宛てた手紙の中で、最近の珍しい話のひとつとしてこの事件を報じています。ただ、龍馬は他にたくさん知らせたいことがあったか、自分がわざわざ知らせなくても誰かが詳しく連絡するだろうと考えたのか、単に「弘井岩之助(註:廣井磐之助のこと)のかたきうち」と書いているだけです。

大正3年(1914)に刊行された千頭清臣(ちかみ・きよみ)氏の『坂本龍馬』(博文館より出版)では、勝海舟の判断で、龍馬も廣井に同行したと記されています。同書によれば、龍馬が仇討ちの現場で、廣井の宿敵・棚橋三郎が無刀であることに気付き、「之を以て武士の面目を全うせよ」と剣を与えたから、棚橋は龍馬のはからいに感泣し、剣を受け取って見事な最期を遂げた、というのです。

千頭氏の叙述はまるで小説のように面白いのですが、龍馬が仇討ちの現場に行ったという事実はありません。これが信頼できる研究書の一致した見解です。この仇討ちで廣井磐之助に尽力したのは勝海舟だったのです。勝は、廣井が自分の愛弟子・龍馬にすがったのだから、龍馬のためにも廣井に本懐を遂げさせてやりたかったのでしょう。

廣井磐之助は苦節9年にして本懐を遂げました。そして、土佐に帰って廣井家を再興するのですが、慶応2(1866)に病死します。27歳でした。棚橋を探し求める長旅に生きる力のすべてを注いだ結果の若死ではなかったのでしょうか。勝海舟の筆による彼の墓碑は高知市平和町県営住宅近くに、そして高知市西町の一角には「孝子廣井磐之助邸趾」と刻まれた昭和2年(1927)建立の碑が今も残されています。