大野充彦『龍馬の小箱』(27)
ご番衆、ご番衆!


先日、私がたまたま手にした史料集には、「古語曰く」という前置きのあと、「天運は30年に一度『小変』し、100年すると『中変』、500年経つと『大変』する」と書かれた一文がありました。原文では「古語曰く、それ天運は三十歳に一小変し、百年に中変し、五百歳にして大変す」、となっています。「大変」という語句はいまも生きていて、「一大事」とか「おおごと」といった意味で日常的に使います。ただ、私が引用した一文では一大画期とか、時代の一番大きな変化、という意味で使われていました。

私が手にしていた史料集は、平成22年に高知県立図書館から刊行された『土佐國群書類従』第12巻です。本当は三谷(みたに)寺に関わる史料を探していたのです。同寺は、平安時代の初期に建立され、弘法大師(こうぼうだいし)が中興したという寺伝を有していますが、3代土佐藩主・山内忠豊(やまうち・ただとよ)が浦戸湾の沖合で台風に遭遇した際、同寺のご本尊のご利益によって難を逃れることができたということがあり、以後長らく山内氏の庇護を受けることになります。

私は、高知城下の北方に位置する三谷寺あたりから「遊火」が出始めた、という言い伝えがあることを知り、調べ始めていたのです。前掲の史料集によれば、昔は出なかった「遊火」が元禄・宝永の頃から陽貴山(現在の高知市薊野)のあたり、浦戸湾北東の海上、そして高知城下にも現れるようになった、というのです。人に害を与えることはなかったものの、火の玉が城下町周辺を浮遊し、人々に恐怖感を与えていたのです。

高知の城下で「遊火」の噂が流れ始めた元禄・宝永期(西暦1688年~1710年)は江戸時代の中期に相当します。もっとも世の中が繁栄、安定した時期なのです。だからこそ人々は、「遊火」の出現に不吉なものを感じたのかもしれません。幕末維新期からさかのぼれば約200年前です。「中変」のひとつの兆しだったのでしょうか。ただし、同じ『土佐國群書類従』第12巻ではありますが、「遊火」の話が記録された史料と今回冒頭で紹介した「小変」「中変」「大変」云々の史料とはまったく別のものです。

話を「天運は三十歳に一小変し、百年に中変し、五百歳にして大変す」に戻しましょう。この一文を冒頭に置き、土佐の変化を書き記した人物は箕浦秦川(みのうら・じんせん)という土佐の儒学者です。彼は78歳になった享和3年(1803)、自らの見聞を「黙識録(もくしきろく)」という一冊に仕立てたのです。政治批判の試みといった誤解が生じることを危惧して「黙識録」と命名したようです。

私が「黙識録」の記述で一番興味を抱いたのは、高知の城下町における徹底した夜警のあり方です。元禄の頃までの土佐藩士はお城の「時の鐘」を合図に、「火の用心」のため小者(こもの)を出して城下を巡回させていた、というのです。冬場の風が強い夜は当主自らが夜回りをしたとも伝えられていました。夜回りでは、各屋敷の長屋門に向かって「ご番衆、ご番衆!」と声をかけ、屋敷内の番人から返事がなければ、応答があるまで声をかけ続けていたそうです。そして、それとは別にお城の足軽たちが拍子木(ひょうしぎ)を打ち鳴らして城下を回り、さらには御目付配下の下横目(したよこめ)までもが巡察していたというのです。箕浦が収集した言い伝えが正しければ、高知城下は三重の警戒態勢が維持されていたことになります。泰平の世になったとはいえ、まだ戦国時代の「遺風」があったゆえに高知城下は夜警が厳重になされていた、と箕浦は指摘しています。

元禄期から30年あまりが過ぎた享保12年(1727)2月、高知城下の越前町から火が出て、土佐藩史上最大の大火に見舞われます。お城も炎上しました。本丸、二の丸、三の丸など、ほぼ全焼と言ってほどの被害を受けたのです。武家居住区で焼け残ったのはわずかに48軒。9割ほどの武家屋敷が罹災しました。先ほどの「遊火」どころの話ではなくなったのです。この「享保の大火」は「指火(さしび)」、つまり放火が原因でした。犯人は逮捕され、火あぶりの刑に処せられました。

箕浦が問題視するのは、「享保の大火」後しばらく番人が在住する長屋門が少なくなったこともあって、「ご番衆、ご番衆!」の掛け声も形ばかりとなり、「鉄棒引(かなぼうびき)」を専門とする人が雇われることになった点です。長い鉄棒を引きづって路地を歩いていけば、それなりの音がするはずで、それが「ご番衆、ご番衆!」の掛け声に代わって、城下の人々に「火の用心」を喚起することになったのでしょう。でも、「大火」の後ほど夜警を徹底させねばならなかったはずです。

「ご番衆、ご番衆!」と声を掛け合って城下を守るという戦国時代の「遺風」が次第に薄れ、形骸化していく背景には、「日雇い夫(ひやといふ」の著しい増加があったと思います。江戸時代の中後期になると、歴史が停滞気味だった土佐でさえ、都市周辺でも山村でも従属民が急速に自立するのです。彼らは依然として下層民だったとはいえ、賃稼ぎで生計を立てることができるようになっていきます。「鉄棒引」を任された「日雇い夫」が仮に手抜きをしたとしても、それを咎めることはできません。軍事政権を支えた武士たちにとって、夜警は軍事奉公のひとつだったはずです。本来の責務を名もない民衆に肩代わりさせた武士にこそ問題があったのです。

幕末維新期は「小変」でも「中変」でもなく、文字通りの「大変」でした。箕浦秦川の説に従って年表をさかのぼってみますと、幕末維新期の500年前は南北朝の内乱期になります。南北朝の内乱期は、土地制度としての荘園制の実質が失われ、経済活動などで力をたくわえた商人や土豪たちは「自治」をめざして権力に抵抗していき、いっぽうの権力側は専制化を志向し始め、両者の相克が新しい時代の特徴になっていくのです(中世史家の故網野善彦氏は、南北朝の内乱期を日本史を二分するほどの画期だった、と強調されたことがありました)。茶の湯や生け花、お能や連歌など「日本的」と言われる芸能は、すべて南北朝の内乱期以降に生まれたのです。江戸中後期の儒学者・箕浦秦川が幕末維新期まで見通していたとは思えませんが、「ご番衆、ご番衆!」という掛け声を聞き流しにしているうち、「日本的」な諸文化は欧米の圧倒的な軍事力に直面し、権力の専制化のあり方が問い直される激動の時代=幕末維新期を招来させたのです。