大野充彦『龍馬の小箱』(31)
剣豪斎藤弥九郎の人生


前回、龍馬の剣術修行の概略をまとめていた折、松浦玲(まつうら・れい)氏の『還暦以後』(筑摩書房)を思い出しましたので、今回は同書に収められている斎藤弥九郎(さいとう・やくろう)を取り上げたいと思います。

松浦氏は1931年生まれ。私の人生の師・上田博信(あげた・ひろのぶ)氏とは京都大学の同期。幕末維新期の研究者として広く知られているのですが、前掲書は書名のように、勝海舟(かつ・かいしゅう)や徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)などの「還暦以後」を取り扱ったユニークな人物エッセイです。

歴史学は天下国家を論じたり、社会を総体として取り上げる学問です。そのため、時として「人間不在の学問」と揶揄されることがあります。また、歴史学は、歴史事象が「如何に成ったか」に究明の力点をおく学問ですので、「如何に消えていったか」にはあまり関心を向けません。これは私個人の勝手な想像ですが、『還暦以後』を執筆した際の松浦氏にはそんな歴史学の欠を補おうとの考えもあったのでは、と思います。

松浦氏の前掲書は、海舟と慶喜を含めて27名におよぶ歴史上の人物が取り上げられています。海舟と慶喜は、「維新の三傑」といわれる西郷隆盛(さいごう・たかもり)、大久保利通(おおくぼ・としみち)、木戸孝允(きど・たかよし)より長生きします。負けた方が勝った方より長生きした、といった趣旨の書き出しで始まるのです。

松浦氏は、自身が還暦を過ぎ、古稀を迎える年齢になると、長生きした歴史上の人物の記憶や意識といったものに対する関心が強くなっていった、というのです。ですから当然、史料の「読み込み」が若手の研究者とは違います。そこが本書の「売り」であり、読者の期待を裏切らない好著になっています。以下は、特に断らない限り、同氏の著書に依ります。

斎藤弥九郎は神道無念流(しんとうむねんりゅう)の達人です。安政(あんせい)5年、西暦1858年に数え年61の還暦を迎えます。ライバルだった千葉周作(ちば・しゅうさく)は安政2年に死んでいますし、還暦の斎藤は隠居の身です。でも、壮年期の斎藤は(龍馬がまだ生まれていなかった頃か幼かった頃)、剣術はもちろんのこと、洋式砲術も積極的に学んでいました。そして、彼の道場・練兵館(れんぺいかん)が全国に知られるようになると、長州藩の桂小五郎(かつら・こごろう)が塾頭となり、長州藩と結びついた道場としても有名になっていきます。なお、桂小五郎は、のちに木戸孝允(きど・たかよし)と改名します。

桂小五郎に次いで練兵館の塾頭になったのは、肥前(現在の佐賀県)の小藩・大村藩の渡辺昇(わたなべ・のぼる)でした。彼は長崎で長州藩関係者と坂本龍馬を引き合わせ、「薩長同盟」など反幕勢力の連携強化に尽力します。「薩長同盟」成立の背後には斎藤弥九郎の人脈があったことを見落とすわけにはいきません。

松浦氏によれば、還暦前後の斎藤弥九郎のもとには松平春嶽(まつだいら・しゅんがく)や長州藩世子などが訪れた、というのです。水戸藩とはそれ以前から親交があったともいいます。練兵館や代々木山荘で客を迎えることが多かったそうです。斎藤は「長州系の剣客集団が組織された」ことに大きく関わったとも松浦著は述べています。

非公式の、あるいは水面下での、と表現したらいいのでしょうか、とにかく表沙汰にならないように事を進めたい「依頼事」は、日本の幕末に限らず、変革をめざす人々にとっては大切なことだったのです。依頼主は、さまざまな人脈を持ち、人間的にも信頼できる人間、そして自由に行動できる人物、そんな人のもとへ「依頼事」を持ち込みます。依頼主からみれば、年齢が違う龍馬も斎藤弥九郎も(表現は適切ではありませんが)、「好都合な」人間だったはずです。私は自分自身を振り返って思うのですが、「依頼事」が次々舞い込んでくる頃が人生の絶頂期だと思うのです。

かつて練兵館の塾頭だった桂小五郎は江戸開城後、旧師・斎藤弥九郎に再会します。義理堅い(これは松浦氏著の表現のままですが)桂は、71歳の斎藤を新政府の役人に採用します。斎藤は慣れない会計官の仕事を大坂で几帳面に続けたそうです。しかし、役人としての地位は少しずつ下がっていったらしいのです。そこにはかつての剣豪の面影はありません。大名クラスの人たちから「依頼事」を持ち込まれた人の晩年とも思えません。東京転勤を喜んだ斎藤は、東京に戻った年に病死してしまいます。これが龍馬より35年ほど早く生まれ、龍馬暗殺後4年ほど生きた斎藤弥九郎の最期でした。