大野充彦『龍馬の小箱』(36)
土佐藩の家臣団をめぐって⑤


家臣団ここで、話を野中兼山(のなか・けんざん)に戻します。山内一豊(やまうち・かつとよ)は弟の康豊(やすとよ)の子を養子に迎え、2代藩主にします。忠義(ただよし)です。野中兼山は、山内一豊の妹の嫁ぎ先の一族の子供です。傍系の兼山が准藩主のような存在になっていくのですから、「家の論理」からすれば、いつかは否定せねばならなかったのです。

武士の主従関係は、主君が替わる時、つまり「代替わり」で一端切れます。それを好機とみて先代の老臣を遠ざける、残った家臣全員には絶対服従を新たに誓わせる、というのが「公儀体制」の常套手段でした。これは、将軍家でも、各地の大名家でもおこなわれていたことです。

野中兼山の政治が否定されたのは、藩主の「代替わり」の直後でした。野中一族は罪人となります。この土佐藩政の一大転換を「寛文改替(かんぶんかいたい)」といいます。私に言わせれば、この「寛文改替」こそが土佐版の「公儀体制」の確立です。

今、筆山(ひつざん)にある山内家の墓所は、「寛文改替」後に整備されたものです。中央に一豊の廟所(びょうしょ)が置かれ、その左右、上下に2代、3代、4代、5代と、歴代順に整然と墓石が配置されています。一豊の廟所近くにあったという一豊の妹の墓は、はるか下方に移されました。なおかつ、山内家の墓所全体が、真北に位置する高知城を守護している形になっています。これも「寛文改替」政権の都市計画の一環だったと思われます。高知城は、藩主の私的な居所と、藩の公的な儀式をおこなう場となります。城内にあったという野中兼山の邸宅は撤去されます。政庁は城外に移ります。

家老は実質上政務の最高位に就きますが、必ず複数の家老の合意が必要となっていきます。「公儀体制」は、藩主の専制政治をカモフラージュするために合議制を持続させます。そして、支配者の恣意性を内に秘めつつも、法律に従う統治をおこなっていきます。こういった意味を込め、私は「法度支配(はっとしはい)」という言葉を使うことにしています。

土佐藩では、野中兼山時代の法令をすべて見直し、部局ごとの法令を整備し、それを集大成させます。できあがったものが土佐藩の一大法典「元禄大定目(げんろくだいじょうもく)」です。

「元禄大定目」の末尾がどうなっているかと申しますと、藩主の命令によって野中兼 山時代以降の法令をまとめあげた、という文章が綴られ、そのあとに家老たちの名が連ねられているのです。この「元禄大定目」の末尾に、兼山政治の否定、合議制、「法度支配」が端的に示されているのです。

土佐藩は、幕末に吉田東洋(よしだ・とうよう)が実権を委ねられるまで、この「元禄大定目」にのっとった政治がおこなわれていきます。そして、月番交代制も次第に拡大され、権力を藩主以外の人間が握らないような政治が続けられます。

「元禄大定目」の原本は残っていませんが、私はかつて、「元禄大定目」の写本をすべて集め、カッコよく言えば書誌学的考察を試みたことがありました。県内外に残っている写本のうち、もっとも良質な写本は安芸(あき)市の五藤(ごとう)家に伝わるものですが、どの写本を見ても、山支配だけに書き込みがあるとか、浦支配関係のところにだけ書き込みがあるとか、というように、のちの書き込みが支配単位ごとにみられる、という特徴があるのです。

江戸時代は農業中心で、それゆえ年貢米が重要なウエイトを占めるのですが、お茶や綿花、和紙という例のように、商品作物の栽培や加工が一般化していきますので、土佐国内の土地利用状況は「元禄大定目」制定当時とは変わっていきます。それに対応したのが「追加定目(ついかじょうもく)」と呼ばれるものです。

さきほど「元禄大定目」の写本には支配単位ごとに書き込みがある、と申しました。その書き込みが「追加定目」です。土佐藩は、長宗我部地検帳を土地支配の根幹に据え、「元禄大定目」を「法度支配」の基本法としつつも、社会の変容に対しては部分修正で応じていた、ということなのです。