大野充彦『龍馬の小箱』(38)
NHKが発見した龍馬の手紙①


昨年(2014年)、世間が一番注目したのは、「龍馬の新しい手紙の発見」だったのではないでしょうか。NHKが「突撃アッとホーム」という番組の取材中、龍馬の手紙を東京都の民家から発見したのです。番組のスタッフが訪れるまで、ながらく居間に置いたままだったというのですから驚きです。そのお宅の先代がかつて古美術商から1000円で買ったものが、番組中の鑑定で1500万円の値がつきました。またまた驚きです。放映は2014年4月12日でしたが、龍馬の手紙発見のニュースは放映前、新聞やテレビで大きく報じられました。地元の高知新聞は4月8日、写真入りで紹介しました。その後、高知県立坂本龍馬記念館や福井県立歴史博物館で特別展が開かれたり、各地でさまざまな講演会も催されたようです。この新発見の龍馬の手紙を以下では【手紙】と表記し、私なりの解説をしたいと思います。

【手紙】が本物かどうか、NHKの番組ディレクターは高知県立坂本龍馬記念館、山口県下関市立長府博物館、京都国立博物館に出向き、各館の専門家に鑑定してもらいました。その模様も放映されました。この3館は従来から、龍馬の真筆を所蔵していることで知られていたからです。

NHKは、【手紙】が龍馬の真筆に間違いないということで、5月14日には「歴史秘話ヒストリア」でも趣向を凝らした番組を放映しました。【手紙】に出てくる「三八」こと三岡八郎(みつおか・はちろう)、のちの由利公正(ゆり・きみまさ)と龍馬との再会シーンを再現したり、暗殺直前の龍馬の姿を追い求めるといった番組でした。財政に精通していた由利こそ大政奉還後の新国家樹立に不可欠な人物だ、龍馬はかくも財政問題を重視していた、といったことが強調されていたように私は記憶しています。

【手紙】はその冒頭に、「越行の記」と書かれています。宛名は「後藤先生」です。龍馬は慶応3年(1867)10月24日、土佐藩の重臣・後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)に依頼され、越前(福井)にいる松平春嶽(まつだいら・しゅんがく)に宛てた山内容堂(やまうち・ようどう)の書簡を届けるべく京都を出発、役目を終えて帰京したのが11月5日です。暗殺される10日前のことです。

由利公正(ゆり・きみまさ)は越前藩内の改革派ゆえに処分され、龍馬が福井入りした時も謹慎中でしたが、福井藩側の特別な計らいで龍馬と会うことが許され、ふたりは終日会談しました。

龍馬の越前行きは既知の事実です。たとえば、いまから50年ほど前に公刊された池田敬正(いけだ・よしまさ)氏著『坂本龍馬』(中公新書、1965年刊)の179ページには、次のように述べられています。彼自身(龍馬のこと。大野註)は、十月二十四日京都を出発して福井に赴く。これは後藤の要請で、松平慶永(春嶽のこと。大野註)の上京を促すためであったようだが、龍馬自身は、由利公正に会うことを主たる目的としていたのではなかろうか。すでに八月長崎で、佐々木高行と、新政府の財政を担当する人物として由利を起用すべきだと相談していた。

龍馬は、越前行きの前から、由利公正を高く評価していました。前年の12月4日、兄・権平に宛てた手紙(実は、この手紙は龍馬の手紙のなかで最も長いものとして有名なのですが)の最後あたりで、天下を代表する人物として9名の氏名をあげています。徳川家の大久保忠寛(おおくぼ・ただひろ)、勝海舟(かつ・かいしゅう)をはじめ、西郷隆盛(さいごう・たかもり)や桂小五郎(かつら・こごろう)、高杉晋作(たかすぎ・しんさく)とともに、由利公正の名もあげているのです。

私はNHKのスクープに「ケチをつける」つもりはありません。ただ、幕末・維新史の研究の精度や蓄積はすごいものがあります。先ほどの池田氏著書もそうですが、【手紙】に出てくる龍馬と由利公正の会談に限って言えば、すでに戦前から三岡丈夫編『由利公正伝』(1916年刊)や由利正道編『子爵由利公正伝』(1940年刊)などに基づいた一定の研究成果があるのです。NHKの番組の大半は周知の事柄に属し、【手紙】の内容の多くも研究者には知られていたことなのです。

このように述べますと、【手紙】の発見はあまり意味がなかったように思われてしまいますが、少なくとも私は【手紙】の発見を機に、いろいろ考えさせられました。まず、【手紙】によって旧説を訂正しなければならないことがあります。何が訂正されねばならないかと申しますと、龍馬は福井で春嶽とは直接会っていない、という点です。

前掲の池田氏著書は、私が先ほど5の項目で引用した文章に続き、「龍馬は十一月一日福井に到着し、ただちに慶永に会った。」と書いていますが、【手紙】では、私の拙い現代語訳で示しますと、福井藩の大目付・村田氏寿(むらた・うじひさ)が、春嶽様は来月2日(11月2日)に京都に行くことになっており、多忙ゆえにお目通りできません。しかし、お問い合わせのことは私から申し上げます。と述べた、というように書かれているのです。龍馬はこの件に関し、【手紙】で嘘を言う必要はないのですから、春嶽には会えなかったと断定してよいのでしょう。だからこそ、龍馬は三岡とじっくり話し合ったのです。龍馬の越前行きの当初の目的は春嶽に会って、土佐藩の立場を伝え、理解を得ることだったはずで、三岡との会談は、春嶽に会えなかったため、結果としてそうなったと見るべきではないでしょうか。

私が【手紙】を通して考えたことは、(1)【手紙】の形式として注目すべきこと、(2)【手紙】が書かれた前後の時代背景を吟味すること、(3)龍馬の立場はどうなっていったのか(彼の立場に何らかの変化があったのではないか)の3点です。これらについては次回以降にあらためて詳しく述べます。
(この項、次回に続く)