大野充彦『龍馬の小箱』(39)
NHKが発見した龍馬の手紙②


前回は、NHKがスクープした龍馬真筆の手紙をとりあげました。龍馬は慶応3年(1867)10月24日、土佐藩の後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)の依頼で越前(福井)に旅立ちます。帰京した龍馬は、依頼主だった後藤に手紙を書きました。その草稿だというものがNHKの番組によって発見されたのです。今回以降は、前回予告した私なりの着眼点である(1)【手紙】の形式として注目すべきこと、(2)【手紙】が書かれていた前後の時代背景を吟味すること、(3)龍馬の立場はどうなっていったのか、の3点について述べていきます。ただ、(1)~(3)はそれぞれ密接な関係にありますので、箇条書きにして順番通りに説明するわけにはまいりません。今回もNHKが発見した龍馬の手紙を【手紙】と表記し、月日は特別に断らない限り、すべて慶応3年(1867)とさせていただくこと、あらかじめお断りしておきます。

1、NHKの番組では、【手紙】の中の「幕」や「此」という漢字の書き方が龍馬独特だということや、【手紙】全体の書き方から判断して龍馬の真筆に間違いない、と推断しました。私も【手紙】は龍馬の真筆だと思います。ただ、私はそれ以外の点でも龍馬の真筆だと感じた点があります。

2、私が【手紙】を見てすぐ思いついたのは、土佐山内家宝物資料館が所蔵する溝渕廣之丞(みぞぶち・ひろのじょう)宛ての龍馬の手紙の草稿、と言われているものです。いつものように私の拙い現代語訳で、それも一部分を省略しながら龍馬の独白部分をを引用します。

  • ……資金が乏しく、すみやかに事は運びませんでしたが、それでも海運の第一歩を踏み出すことができました。この数年間、各地を奔走しましたが、故郷を忘れたことはありません。ただ、志も果たさずお殿様(山内容堂のことを指すヵ。大野註)にお会いすることはできないと思い定め、いままで仕官せず、労苦に甘んじてきました。

3、この手紙は、書かれている内容から推測して慶応2年(1866)11月のものです。【手紙】の1年前のものです。溝渕宛ての龍馬の手紙には、字句の訂正が数か所みられます。そのうちの2か所には、縦長の長方形のような形で、文字を墨で塗りつぶしています。この龍馬特有と言ってよい字句修正の仕方が【手紙】でも確認できるのです。

4、慶応元年(1865)年9月7日の親族に宛てた龍馬の手紙は長文だということもあってか、8か所に似た字句修正がみられます。慶応2年(1866)年8月16日付の三吉慎蔵(みよし・しんぞう)に宛てた手紙でも、龍馬は同じように字句を修正しています。字句修正の仕方という、本当に細かな点なのですが、私は、この面での同一傾向から推しても、【手紙】は龍馬の真筆だと思うのです。

5、先ほど引用した溝渕宛ての手紙の内容に戻ります。この龍馬の手紙は、土佐藩の重役・後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)と長崎で対面するため、両者の仲介役のひとりと思われる溝渕に渡そうとしたものですから、龍馬は書面に、自己紹介文のようなものを書いたわけです。後藤はそのころ、長崎に出張し、時には中国の上海(シャンハイ)まで出向いて汽船を購入していました。

6、龍馬と後藤の、長崎における初めての会談が有名な「清風亭(せいふうてい)の会談」です。龍馬はこれを機に、脱藩の罪が許され、海援隊の隊長になります。そして、後藤と龍馬は大政奉還の実現に向けて同一歩調をとることになります。後藤が龍馬に越前行きを依頼したのは、薩長が武力討幕に傾いてきましたから、越前の松平春嶽(まつだいら・しゅんがく)の上京を促し、山内容堂(やまうち・ようどう)との連携強化を図ろうとしたためだったと思われます。

7、主題の【手紙】から少し離れますが、ここで「四侯会議(しこうかいぎ)」に触れなければならないでしょう。「四侯」とは島津久光(しまづ・ひさみつ)、伊達宗城(だて・むねなり)、山内容堂(やまうち・ようどう)、松平春嶽(まつだいら・しゅんがく)の4名です。この4名による会議は同じ年の慶応3年(1867)の5月、京都に設置されました。当面の課題は、朝敵の烙印を押されたままになっていた長州藩をどのように扱うか、もうひとつは積極的な攘夷論者だった孝明(こうめい)天皇の反対で宙に浮いていた兵庫(神戸)の港をいかに開くか、だったのです。

8、山内容堂は4月28日、藩船・夕顔に乗って高知を出発、5月1日に河原町の土佐藩邸に入りました。ほかの3名はすでに入京していましたから、容堂の到着を待ちかねたかのような形で4日、まずは越前藩邸で会議が開かれ、14日には将軍・慶喜との二条城会談がもたれ、その後も何度か開催されます。土佐藩邸で開かれたこともありました。しかし、四侯会議は、薩摩藩が雄藩連合体制をめざして主導したため、島津久光が長州問題の解決こそ先決と主張すると、慶喜は徳川家の威信をかけて兵庫開港こそ急務と力説します。諸外国と開港の約束をしたのが安政5か国条約。結んだのは幕府だったからです。

9、対立が続く「四侯会議」に失望した容堂は、5月20日には幕府へ、翌日には朝廷へと帰国願いを出し、土佐へ帰ってしまいます。このあたりがいかにも容堂らしいと思います。信念の人と評することもできますが、融通がきかない一徹者ゆえ、時局に即応できなかったと批判することもできましょう。「四侯」を単純に色分けすると、将軍との対決姿勢を示したのは島津と伊達で、容堂と春嶽は将軍家の権威を守り通そうとしました。兵庫開港問題は外交権を誰が掌握しているか、それを諸外国に示す大切なものですから、慶喜は必死でした。彼は5月24日、兵庫開港の勅許を得ます。結局、四侯会議は慶喜の粘り勝ち。薩摩藩の思惑どおりにはいきませんでした。当然、薩摩藩は路線を変更せざるを得ません。討幕の密勅を得るため、急進派の公家を動かし、朝廷工作を本格化させます。
(この項、さらに続く)