大野充彦『龍馬の小箱』(40)
NHKが発見した龍馬の手紙③


山内容堂(やまうち・ようどう)は、山内一豊(やまうち・かつとよ)が関ヶ原の合戦後、土佐一国を拝領したことや、分家の自分が山内氏の当主となることで山内家の存続が許されたことなどの経緯から、「徳川恩顧の家柄」という強い想いがありました。しかし、江戸から京都に来た板垣退助(いたがき・たいすけ)は慶応3年(1867)5月21日、中岡慎太郎(なかおか・しんたろう)たちとともに、薩摩藩の小松帯刀(こまつ・たてわき)や西郷隆盛(さいごう・たかもり)らと討幕挙兵の密約を交わします。この日は、「四侯会議」に絶望した容堂が朝廷に帰国願いを出した日でした。

容堂は5月27日に京都を発し、6月2日帰国します。板垣も帰国します。急進派の彼の帰国目的は高知で挙兵を画策するためでした。その板垣が6月13日、高知で大目付になり、7月24日仕置役に昇進します。容堂の在国中のことです。この頃から板垣の存在やその動きは容堂でさえ一目置かざるを得なくなるのです。歴史は明らかに、大きな音を立て、転回しようとしていたのです。こんな状況下、後藤と龍馬は、板垣と入れ替わるように長崎から京都にやってきます。

龍馬や後藤が長崎から京都に来たとき、容堂や板垣は土佐に帰っています。そんな6月22日、中岡慎太郎の周旋もあって、薩摩、土佐両藩は「薩土盟約」を結びます。この「盟約」には「王制復古は論なし」という文言があります。日本の政権が幕府から朝廷へと移行するのは自明の理だ、といった響きが伝わってきます。問題は、徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)がすみやかに政権を返上するか、さもなくば武力で「王制復古」を実現させるか、なのです。政局は切迫してきました。

後藤は7月3日に京都を離れ、8日高知に着き、容堂に面会を求めました。「薩土盟約」その他、京都藩邸の結論に対する裁可を仰ぐためです。翌日開かれた重役会議で異を唱えたのは板垣だけでした。重役たちは容堂と同じく、というか、容堂がそうだから、容堂の意向に従った、ということなのですが、武力討幕を回避するには政権の返上を将軍に願うしかない、との結論を出したのです。板垣は、薩長の急進派と歩調を合わせて挙兵の準備をしなければ後れを取ると考えていましたが、しぶしぶ重役たちの意見に従いました。

土佐藩は、「薩土盟約」を結び、大政奉還の建白路線を薩摩藩に容認させたつもりでいました。しかし、薩摩藩は、近い将来の討幕挙兵のことを考え、薩長側に土佐藩をつなぎ止めようというねらいがあって盟約に賛同したのです。

歴史を後代からみることは簡単です。しかし、当時の人びとは腹の探り合いで必死だったと思います。幕府にも各大名にもそれぞれ思惑がありました。外国の出方も牽制せねばなりません。外国を味方に引き入れる方策も検討されていました。仮に武力討幕が成功しても、新政府には固有の軍隊もないし、財源もないのです。江戸時代のような封建的主従関係を断ち切ることは簡単にできることではありません。結果論ですが、幕府が崩壊しても、藩という組織、権力は、廃藩置県まで存続するのです。現在の日本では地域活性化のために「地方分権」を唱える人々がいますが、当時は(今とは歴史的条件がまったく異なりますが)、いち早く「地方分権」を克服しなければ植民地化の危機を招く、という危機意識がありました。

当時の政局に何らかの関わりを持った人々の危機意識は、己のためか国のためか、はたまた民衆の将来を考えてのことだったか、その点はここで問うことはしません。大政奉還の建白路線が最善と考えていた人たちは、最悪の場合でも(徳川家が政権を放棄しても、将軍職を辞任しても)、徳川家は全国随一の大名として存続できるようにすることがねらいでした。

龍馬に越前行きを頼んだ後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)は、難しく申せば「重商主義」の考えの持ち主で、浦戸湾に面した九反田(くたんだ)の地に「開成館(かいせいかん)」という施設をつくり、藩外との交易によって財源を確保し、軍備の近代化をめざしていました。もちろん、山内容堂(やまうち・ようどう)の支援があってのことです。開成館の造成には莫大な経費がかかったわけですが、交易の利益で補填し、事業の拡張を企図していました。しかし、開国以来の物価高や臨時課税で苦しむ民衆がいたことを忘れることはできません。

龍馬と後藤が長崎の清風亭(せいふうてい)で会談したのは1月中旬でした。山内容堂が四侯(しこう)会議に失望して離京したのは5月27日。「薩土盟約」は6月22日。そして、それから約4か月経って大政奉還の勅許が得られるのですが、この約4か月間に、大久保利通らによって王政復古が画策されたり、薩長が討幕挙兵の密約を交わします。和戦両様のままに緊迫した政局が進行する興味深い4か月間です。

龍馬は、姉・乙女に宛てて、「後藤は実に同志にて、人のたましひ(魂)も志も土佐国中で外にあるまいと存候」と書いています(慶応3年6月24日付)。龍馬は脱藩した後、「自由」な立場でさまざまな人たちと議論し、敵対関係にあった人たちの仲介もし、幕末の政局に大きな役割を果たすのですが、清風亭(せいふうてい)の会談以降は次第に土佐藩という枠にとらわれだしたように見受けられます。

龍馬は封建世襲の弊害を取り除き、欧米式の議会政治を模索した人物だったとか、共和制にも関心を寄せていた、ということを強調している書物も多いのですが、龍馬の「夢」が実現可能になるような歴史的条件はまだ整っていなかった、というのが私の考えです。龍馬が後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)の依頼で越前に行った往復の道中、土佐藩という枠が龍馬の心に何らかの影を落としていたのではないでしょうか。【手紙】の中に、越前藩の取次役(とりつぎやく)が龍馬の役名を尋ねたから、自分は「海援隊惣官(かいえんたいそうかん)」つまり海援隊長であると応えた、という記述があります。海援隊は、後藤の働きかけによって支援先が薩摩藩からすでに土佐藩に移行していたのです。私は、脱藩した龍馬が次第に土佐藩の枠に囚(とら)われだしてきたように思われてなりません。
(この項、次回で終り)